ガラテヤ1章
1:1 人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、
1:2 私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
パウロは、自分が使徒であることを名乗るときに、その任命は、父なる神によったことを示しましたが、その父については、「キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神」と表現しています。この方を信じることで義とされたことだけでなく、キリストをよみがえられた御力をもって、私たちをも変え、キリストの御姿と同じものにする働きの神として覚えて、このように表現しています。それは、ガラテヤの信者の問題点と関わっています。
イエス・キリストと父なる神によって使徒とされたことを強調しました。決して人からのものではないことを示したのです。それは、ガラテヤの集会に入った教えを矯正するために正しい教えを示す必要がありましたが、その教えが神からのものであることを明確に覚えさせるためです。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
恵みは、神様があらかじめ備えた良いものです。信仰によって受け取ることができます。示されている神の言葉を信じて従うところにその祝福が実現します。逆に言えば、信仰のないところにその祝福は実現しません。これは、厳粛なことで、恵みは、何もしなくても備えられる良いものということではありません。ちなみに、「一方的な恵み」という表現は、不適切です。信仰によって受け取るのです。
平安は、原意は「神の御心を行うことで得られる完全さ」を表します。神様が実現しようとしておられることは、人に平安があることではありません。それが最大の目的ではありせん。たとえば、私たちが敬虔に歩もうとするならば、迫害があります。内には、肉との戦いによって、必ずしも平安な状態が続くとは限らないのです。むしろ、御言葉に従い、肉に死んでキリストの復活と同じ状態になる完全さこそ価値あるものであり、私たちはそれを追求しているのです。
1:4 キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
1:5 この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
私たちに関する神の最大の目的は、今の悪の時代から私たちを救い出すためです。これは、単に罪を赦されていわゆる救いの立場をいただくことだけではありません。悪の世界にあって正しい歩みをする者とするために救い出されたのです。イエス様は、父の御心に従ってそれを実現されました。
1:6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。
手紙の目的と、ガラテヤでの問題点を始めに明確に示しました。問題は、彼らが急に他の福音に移ったことです。彼らの行為は、神から離れることでした。その方は、彼らに良いものを与えようと祝福を備えられたのです。彼らは、それを信仰によって、恵みとして受け取ったのです。
「福音」という言葉が使われていますが、ガラテヤでの問題は、既にキリストを信じた信者が、神の前にどのように歩んで義とされるかということです。「福音」は、文字通り「神の良い知らせ」で聖書全体を含みます。
これは、いわゆる未信者のために語られる罪の裁きからの救いの言葉が全てではなく、信者がどのように歩むかということについての教えも、福音の一部なのです。しかし、今日、「福音」は、いわゆる未信者がキリストを信じて救われるための知らせということだけに限定して使われることが多く、それが福音の全体であるかのような誤解を生じています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。
他の福音という表現を使いましたが、既に伝えた福音を変えてしまおうとする者たちの持っている教えを指しています。具体的には、いくつか示されていて、律法の規定に従って、異邦人と交わってはいけないという教え。割礼を受けること、また、各種の日や月を守ること等です。それを守らなければ、義の行いをしているとは言えないと教えました。ガラテヤの信者は、神の前に正しく歩むことを求めていました。律法を守らなければ、義とはされないと聞いて動揺したのです。そして、すぐにその教を受け入れました。
1:8 しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。
そのような者たちに対して強い警告を与えました。パウロたちが宣べ伝えた福音に反することを福音として宣べ伝えるならば、呪われるというものです。それは、宣べ伝えた当人であっても、使徒であっても、御使いであっても呪われるべきです。ここで、パウロが「私たちであれ」と言っているのは、パウロが人間的な思いからそれを言っているのではないことを示すためです。
1:9 私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。
このような警告は、以前にも言ったのです。そして、二度繰り返しました。それだけ強い警告なのです。
1:10 今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。
パウロが正しい福音を示そうとしましたが、その動機について、人々に取り入ろうとしているのでしょうかと問いました。人々に喜ばれるのか、あるいは受け入れられやすいのかというようなことで伝えるのではないのです。彼は、神のためにそうするのです。人々を喜ばすためではないのです。
いわゆる学びや勧めにおいて、聖書の解説のために解釈が語られますが、これは、人々を喜ばせようとして解釈されてはならないのです。たとえば、聖書の教えを人にあまり厳しくならないような勧めに変えるようなことをしてはならないのです。あくまでも正しく、正確に宣べ伝えられなければならないのです。
1:11 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
パウロが宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。ここからは、そのことを証明しています。それは、ガラテヤの信者が宣べ伝えられた福音は、人間によるものでないのですから、一切変更はできないことを示すためです。
今日、聖書の解釈において、厳格であるべきです。安易な根拠のない解釈、間違っているもの。勉強不足によるもの。調べが浅いもの。教え自体が矛盾しいるものなど、あってはならないのです。そのためには深い研究が必要です。
1:12 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
それは、人間から受けたのでなく、イエス・キリストからの啓示です。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
1:15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
1:16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
1:17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。
1:18 それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
1:19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。
1:20 神の御前で言いますが、私があなたがたに書いていることに偽りはありません。
1:21 それから、私はシリアおよびキリキアの地方に行きました。
1:22 それで私は、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られることはありませんでした。
1:23 ただ、人々は、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いて、
1:24 私のことで神をあがめていました。
彼は、どのようにイエス・キリストから啓示を受けたかを示し、それが、人から受けたものではないことを彼の行動から示しました。